2012年1月29日(日) 奥むさし駅伝
2年越しのリベンジの時が来ました。
実業団・大学・高校と、日本を代表するランナーから、一般の市民ランナーまで、同じフィールドで競えるこの大会、一昨年は即席でメンバーを集めて何とか出場、最終6区で繰り上げになってしまいましたが、参加できたことに喜びを感じました。
そして、翌年、今度は繰り上げスタートを回避して、1つの襷でゴールすることを目標に毎月練習会を開催してスピード練習をしてきました。しかし、まさかの出場チーム定員増による抽選で落選、出場すらできませんでした。
その後も、練習会は継続して、大会に備え、今年の大会は、無事当選を果たし、当日を迎えました。
この1年は、11月上旬までは、不調が続き、9月の5000mは23分近く、11月の10kmは49分かかり、とても駅伝で走れる内容ではありませんでした。
ただ、11月後半からは回復して、5000mの自己ベストも21分中盤から20分台へ、1月には、20分16秒が出て、何とか駅伝でも、短い区間であれば、何とか走れるぐらいにはなってきました。
しかし、その調子とは裏腹に、大会2週間前あたりから、仕事が忙しくなり、睡眠をとるのが精一杯で、練習できる時間はほとんどとれませんでした。
大会前日に飯能に入りホテルへ、佐久長聖高校など、駅伝の有名高校、大学と同じテンションがあがります。
大会当日、朝6時半に受付を済ませ、ホテルで朝食、準備をして、7時半、スタート地点の東飯能駅前に、駅伝メンバー、サポートの方が集合しました。今年は20名以上が集まって、本当にありがたいです。身が引き締まる思いです。
記念撮影をして、8時前から各中継所にそれぞれ電車で向かって、仲間の襷を待つことになります。
私の担当は4区4.7km、6区間の中では、下りが多く一番やさしい区間です。 2年前は、その時のベストの走りはできたのですが19分22秒、区間121位/151チームということで、チームに貢献できるタイムでは走れませんでした。
本番やコースの下見などで、この区間はかなり詳しくなって、日ごろの練習も12月青島太平洋マラソンが終わってからは、5キロ限定でペース配分も体に叩き込んでいました。
今回は、5区までに繰り上げスタートの1時間50分までに襷をつなぐことが最大の目標で、1区~3区は強いランナーが走るので、私の走りが重要になってきて、今回の設定タイムは、2年前より52秒早い18分30秒(キロ3分57秒ペース)、5000m20分台がやっとの走力なので、かなり厳しめの設定タイムです。
4区(西吾野駅‐吾野駅)は、鉄道の高架橋を3回くぐるので、その地点をチェックポイントに、3分57秒‐5分47秒‐2分56秒‐5分50秒を目安にペースを調整して走ることにしました。
午前9時にレーススタート、第3中継所はまだ人もまばらです。当日は寒い北風が吹きぬけていたので、入念にウォーミングアップがてら走って準備しました。
その後、1区の情報が入ってきて、予定より1分以上速く2区に繋がって、緊張感が高まってきました。
ただ2区の方はレース前から体調を崩されており、どうなるか心配でしたが、予定より1~2分遅れましたが襷はつながり3区へ、先頭の高校・大学チームが中継所に現れて、会場も賑わってきました。2年前はきょろきょろばかりしてましたが、今回はスタートが近づいて落ち着いてきました。
そして、10時13分、3区から4区の襷リレー、襷を落としそうになりがら、何とかこらえ、すぐに折り返して、4区の下りがスタートしました。
今回は、走っているときは、冷静すぎるほど落ち着いていて、普段は走っていて気になる襷も気にならず、周辺の景色も、対向車線のランナーもほとんど記憶になく、道路のみに集中して、時折、沿道からの声援に、反応をしませんでしたが、(あと400mって言っていたけど本当は1キロあるなど)心の中で突っ込みながら、走っていました。
ここは、前半下り、ラスト1キロからが上りというコースで、最初は飛ばさずに、下りを利用して、リラックスしながら走りました。最初の高架は4分6秒、予定より9秒遅く、ちょっとペースを早めることにしました。
走力が少し上の人について走ることができれば理想ですが、4区は走力の差が激しく、自分より相当速いペースの人に抜かれ、(6区アンカーに川内選手が控える埼玉県庁チームにも抜かれました。)、遅いペースの人を抜くという展開で、ずーっと個人走になっていました。
2番目の高架は5分46秒で予定通りのタイムで通過、後半次第で設定タイムを更新できる可能性がでてきました。
レース後半、ラストの上り坂が気になり、ペースを上げるかどうするか悩みながら、3番目の高架は3分00秒で通過、ここは4秒遅く、設定タイム更新が苦しくなってきました。
そして、ラスト1キロの看板、時計は14分34秒で、18分40秒以上かかってしまうのかと思いつつ、上り坂のはじまりから、懸命にスパートしました。前にいる選手を抜き、最後も単独走になり、ペースの維持が難しくなってきましたが、中継所が見え、5区のランナーが見え、最後は全力で襷リレーへ、長くて短い4区が終わりました。
タイムは18分31秒、前回より51秒更新、初めてキロ3分台でのタイムで、ラスト1キロの上りも3分台で走れましたが、設定タイムには1秒足りませんでした。
出し尽くしたような、でも1秒だったら、どこかで頑張れたはずという思いもあり、あまりに落ち着いた走りをし過ぎて、がむしゃらさがなかった気もします。箱根駅伝の東洋大学のように1人1秒削り出すことはできませんでした。
チームは、健闘しましたが、第5中継所では、2分21秒足りずに、埼玉県庁(川内選手)チームなど共に、繰り上げスタートとなってしまいました。
それでも、ゴールは2時間25分、過去最高タイムでのゴールで、6人とも、仕事や育児の多忙、怪我・病気の中、全力を出し切りました。
ゴール後は、大人数なので、近くのカラオケBOXのパーティールームで打ち上げ、駅伝について熱く語り合いました。
やはり、駅伝は、普段のマラソンと違って、不思議な力が出る、襷の力を感じることができました。
4区4.679km 18分31秒 区間101位/153チーム
奥むさし駅伝http://www.city.hanno.saitama.jp/0000000959.html
2年越しのリベンジの時が来ました。
実業団・大学・高校と、日本を代表するランナーから、一般の市民ランナーまで、同じフィールドで競えるこの大会、一昨年は即席でメンバーを集めて何とか出場、最終6区で繰り上げになってしまいましたが、参加できたことに喜びを感じました。
そして、翌年、今度は繰り上げスタートを回避して、1つの襷でゴールすることを目標に毎月練習会を開催してスピード練習をしてきました。しかし、まさかの出場チーム定員増による抽選で落選、出場すらできませんでした。
その後も、練習会は継続して、大会に備え、今年の大会は、無事当選を果たし、当日を迎えました。
この1年は、11月上旬までは、不調が続き、9月の5000mは23分近く、11月の10kmは49分かかり、とても駅伝で走れる内容ではありませんでした。
ただ、11月後半からは回復して、5000mの自己ベストも21分中盤から20分台へ、1月には、20分16秒が出て、何とか駅伝でも、短い区間であれば、何とか走れるぐらいにはなってきました。
しかし、その調子とは裏腹に、大会2週間前あたりから、仕事が忙しくなり、睡眠をとるのが精一杯で、練習できる時間はほとんどとれませんでした。
大会前日に飯能に入りホテルへ、佐久長聖高校など、駅伝の有名高校、大学と同じテンションがあがります。
大会当日、朝6時半に受付を済ませ、ホテルで朝食、準備をして、7時半、スタート地点の東飯能駅前に、駅伝メンバー、サポートの方が集合しました。今年は20名以上が集まって、本当にありがたいです。身が引き締まる思いです。
記念撮影をして、8時前から各中継所にそれぞれ電車で向かって、仲間の襷を待つことになります。
私の担当は4区4.7km、6区間の中では、下りが多く一番やさしい区間です。 2年前は、その時のベストの走りはできたのですが19分22秒、区間121位/151チームということで、チームに貢献できるタイムでは走れませんでした。
本番やコースの下見などで、この区間はかなり詳しくなって、日ごろの練習も12月青島太平洋マラソンが終わってからは、5キロ限定でペース配分も体に叩き込んでいました。
今回は、5区までに繰り上げスタートの1時間50分までに襷をつなぐことが最大の目標で、1区~3区は強いランナーが走るので、私の走りが重要になってきて、今回の設定タイムは、2年前より52秒早い18分30秒(キロ3分57秒ペース)、5000m20分台がやっとの走力なので、かなり厳しめの設定タイムです。
4区(西吾野駅‐吾野駅)は、鉄道の高架橋を3回くぐるので、その地点をチェックポイントに、3分57秒‐5分47秒‐2分56秒‐5分50秒を目安にペースを調整して走ることにしました。
午前9時にレーススタート、第3中継所はまだ人もまばらです。当日は寒い北風が吹きぬけていたので、入念にウォーミングアップがてら走って準備しました。
その後、1区の情報が入ってきて、予定より1分以上速く2区に繋がって、緊張感が高まってきました。
ただ2区の方はレース前から体調を崩されており、どうなるか心配でしたが、予定より1~2分遅れましたが襷はつながり3区へ、先頭の高校・大学チームが中継所に現れて、会場も賑わってきました。2年前はきょろきょろばかりしてましたが、今回はスタートが近づいて落ち着いてきました。
そして、10時13分、3区から4区の襷リレー、襷を落としそうになりがら、何とかこらえ、すぐに折り返して、4区の下りがスタートしました。
今回は、走っているときは、冷静すぎるほど落ち着いていて、普段は走っていて気になる襷も気にならず、周辺の景色も、対向車線のランナーもほとんど記憶になく、道路のみに集中して、時折、沿道からの声援に、反応をしませんでしたが、(あと400mって言っていたけど本当は1キロあるなど)心の中で突っ込みながら、走っていました。
ここは、前半下り、ラスト1キロからが上りというコースで、最初は飛ばさずに、下りを利用して、リラックスしながら走りました。最初の高架は4分6秒、予定より9秒遅く、ちょっとペースを早めることにしました。
走力が少し上の人について走ることができれば理想ですが、4区は走力の差が激しく、自分より相当速いペースの人に抜かれ、(6区アンカーに川内選手が控える埼玉県庁チームにも抜かれました。)、遅いペースの人を抜くという展開で、ずーっと個人走になっていました。
2番目の高架は5分46秒で予定通りのタイムで通過、後半次第で設定タイムを更新できる可能性がでてきました。
レース後半、ラストの上り坂が気になり、ペースを上げるかどうするか悩みながら、3番目の高架は3分00秒で通過、ここは4秒遅く、設定タイム更新が苦しくなってきました。
そして、ラスト1キロの看板、時計は14分34秒で、18分40秒以上かかってしまうのかと思いつつ、上り坂のはじまりから、懸命にスパートしました。前にいる選手を抜き、最後も単独走になり、ペースの維持が難しくなってきましたが、中継所が見え、5区のランナーが見え、最後は全力で襷リレーへ、長くて短い4区が終わりました。
タイムは18分31秒、前回より51秒更新、初めてキロ3分台でのタイムで、ラスト1キロの上りも3分台で走れましたが、設定タイムには1秒足りませんでした。
出し尽くしたような、でも1秒だったら、どこかで頑張れたはずという思いもあり、あまりに落ち着いた走りをし過ぎて、がむしゃらさがなかった気もします。箱根駅伝の東洋大学のように1人1秒削り出すことはできませんでした。
チームは、健闘しましたが、第5中継所では、2分21秒足りずに、埼玉県庁(川内選手)チームなど共に、繰り上げスタートとなってしまいました。
それでも、ゴールは2時間25分、過去最高タイムでのゴールで、6人とも、仕事や育児の多忙、怪我・病気の中、全力を出し切りました。
ゴール後は、大人数なので、近くのカラオケBOXのパーティールームで打ち上げ、駅伝について熱く語り合いました。
やはり、駅伝は、普段のマラソンと違って、不思議な力が出る、襷の力を感じることができました。
4区4.679km 18分31秒 区間101位/153チーム
奥むさし駅伝http://www.city.hanno.saitama.jp/0000000959.html
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