8月28日(日)
午後5時前に、ボランティアの登録を済ませ、初参加者のためのガイダンスを受けました。
(※ボランティアを行うには、ボランティア保険の加入が必要となります。7月にいわき市でボランティアをしたときに加入できたので、それを利用しました。)
いわき市では、全国から派遣された自治体職員の方が多かったのですが、遠野では、まとめ、仕切るスタッフは全てボランティアの人が行っていました。
ボランティアに来る人の大半は、この建物の体育館等に宿泊するので、宿泊上の注意なども、細かく決められていました。
午後5時半からは、体育館で全体ミーティングが行われ、その日のボランティアの作業内容の確認、課題など意見交換、明日の作業確認、緒連絡が行われました。(私は帰ってしまいましたが、その日の夜は、歌手の白井貴子さんが訪れたようです。)
夏休み中ということもあり、ボランティアは、団体での大学生の参加者が多く、その他、様々な年代の人が集まっていました。女性の割合は2割ぐらいの感じです。いわき市のボランティアは、首都圏の人が多かったのですが、遠野では、関西を中心に西日本からの参加者の割合が高い感じがしました。
また、日本人に混ざって、フランス人の女性をはじめ、外国人のボランティアの方も何人か見かけました。(海外からボランティアのために訪れてくれる、自分だったらどうするだろうと考えると、本当にありがたい気持ちになります。)
午後6時過ぎに、ミーティングが終了し、明日の朝食・昼食・飲み物を帰り道、スーパーで調達して、駅前の宿に戻って、岩手県内では、まだ見られるアナログテレビで、世界陸上を見つつ、就寝しました。
8月29日(月)
朝6時起床、7時前に宿を出て、遠野まごころネットへ、ラジオ体操、挨拶、緒注意のあと、本日の作業分担がありました。当日は、釜石市、大槌町、陸前高田市の3カ所(どこも遠野から車で1時間ちょっとの距離です。)での作業で、初参加の人は、陸前高田市に割り振られました。
6月に釜石、大槌は訪れていたので、陸前高田は希望通りの場所でした。
遠野の町、6月に訪れた時は、自衛隊の車両が目立ちましたが、今は撤退して、支援に向かう車はバスとトラックが中心です。
道の途中、「支援ありがとう」の横断幕をいくつも見かけました。
陸前高田市に入り、「川の道よこて」でトイレ休憩、陸前高田の野菜なども売られていて、昼食として購入する人もいました。
http://www.sanchoku-iwate.com/pc/contents/shop/f5_36.html
仮設の住宅、店舗などが目立った通りを過ぎ、海へ近づくと町の風景が一変して、車内も、静まり返っていました。多くの瓦礫は回収されましたが、無数の車、瓦礫が特定の箇所に集められて、日常とは程遠い光景のままでした。
3か月前に比べて、雑草が伸び、一見、未開拓のニュータウンのようでしたが、街の中心部で住宅街で、高田松原があり観光地で一番賑わったいた場所だったのに、工事車両だけが行き交う場所に変わってしまいました。
陸前高田の一本松は、頑張って立っていましたが、葉が多少茶色がかっていて、枯れないか気がかりです。
海のそばには津波に飲み込まれ全壊した中学校の校舎もありました。
9時半過ぎ、海岸近くの作業現場に到着しました。グループ毎に作業が割り当てられ、津波で流された家、道路のガラスなどのごみ除去、雑草とりの仕事となりました。
この場所は、魚の加工工場があって、津波によって魚が散乱して、ゴールデンウィーク時には、腐敗臭がかなりきつかったらしいのですが、当日は、匂いは消えていました。
********************
岩手日報 魚の腐敗臭、何とかして 陸前高田の住民不安(2011.5.23)
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110523_13
津波で大きな瓦礫は取り除かれ、広い野原のようになり、そこにわずかに残る建物は、骨組みだけ残しています。作業現場も、瓦礫は撤去され更地にはなっていましたが、土の中に、ガラスや茶碗、本やノートが出てきて、何とも言えない感情になりました。
何度か休憩を入れながら、午前の作業が終了して、バスに戻って昼食。トイレは、移動式バイオトイレカーが用意されていたので、困ることはありませんでした。
午後の作業に入るところで、先ほどの作業の場所で、骨が発見され、人が動物か判断できないものの、警察による捜索が始まりました。(徳島県警のパトカーで10人ほどで作業されていました。)大槌、釜石でも同様に、ボランティアの作業中に御遺骨が見つかることが毎日のようにあるそうで、震災の被害の甚大さを物語っています。
捜索現場から多少離れたところで作業を再開し、ピークを過ぎたとはいえ、気温30度近い中、汗だくになりながら、14時半過ぎ、作業が終了しました。
全てを片づけて、元通りの町に戻すにはまだ相当な時間がかかりそうですが、一人ひとり小さな力でも集まれば、ちょっとずつでも、前へ進んでいると思いました。
帰りの川の駅で、陸前高田一本松クッキーを買って、午後4時過ぎ、遠野まごころネットに戻って、本日の任務完了しました。
帰りは17時過ぎに遠野駅から釜石線に乗り、新花巻駅から新幹線で東京に戻りました。家に着いたは22時半近くでした。
こちらの方のブログに遠野でのボランティア活動の作業内容が詳しく書かれております。
http://wada.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-d9f2.html
遠野駅から歩いて20分ほどで、遠野まごころネットがある「遠野市総合福祉センター」に到着しました。想像していた以上に大きな建物で、その中でたくさんの人が活動しています。
(※ボランティアを行うには、ボランティア保険の加入が必要となります。7月にいわき市でボランティアをしたときに加入できたので、それを利用しました。)
いわき市では、全国から派遣された自治体職員の方が多かったのですが、遠野では、まとめ、仕切るスタッフは全てボランティアの人が行っていました。
ボランティアに来る人の大半は、この建物の体育館等に宿泊するので、宿泊上の注意なども、細かく決められていました。
午後5時半からは、体育館で全体ミーティングが行われ、その日のボランティアの作業内容の確認、課題など意見交換、明日の作業確認、緒連絡が行われました。(私は帰ってしまいましたが、その日の夜は、歌手の白井貴子さんが訪れたようです。)
夏休み中ということもあり、ボランティアは、団体での大学生の参加者が多く、その他、様々な年代の人が集まっていました。女性の割合は2割ぐらいの感じです。いわき市のボランティアは、首都圏の人が多かったのですが、遠野では、関西を中心に西日本からの参加者の割合が高い感じがしました。
また、日本人に混ざって、フランス人の女性をはじめ、外国人のボランティアの方も何人か見かけました。(海外からボランティアのために訪れてくれる、自分だったらどうするだろうと考えると、本当にありがたい気持ちになります。)
午後6時過ぎに、ミーティングが終了し、明日の朝食・昼食・飲み物を帰り道、スーパーで調達して、駅前の宿に戻って、岩手県内では、まだ見られるアナログテレビで、世界陸上を見つつ、就寝しました。
8月29日(月)
朝6時起床、7時前に宿を出て、遠野まごころネットへ、ラジオ体操、挨拶、緒注意のあと、本日の作業分担がありました。当日は、釜石市、大槌町、陸前高田市の3カ所(どこも遠野から車で1時間ちょっとの距離です。)での作業で、初参加の人は、陸前高田市に割り振られました。
朝8時過ぎ、百数十人がマイクロバスで何台かに分乗し陸前高田に向かいました。
(※ボランティア活動中は、原則、写真撮影が禁止されているので、画像はありません。)
遠野の町、6月に訪れた時は、自衛隊の車両が目立ちましたが、今は撤退して、支援に向かう車はバスとトラックが中心です。
道の途中、「支援ありがとう」の横断幕をいくつも見かけました。
陸前高田市に入り、「川の道よこて」でトイレ休憩、陸前高田の野菜なども売られていて、昼食として購入する人もいました。
http://www.sanchoku-iwate.com/pc/contents/shop/f5_36.html
仮設の住宅、店舗などが目立った通りを過ぎ、海へ近づくと町の風景が一変して、車内も、静まり返っていました。多くの瓦礫は回収されましたが、無数の車、瓦礫が特定の箇所に集められて、日常とは程遠い光景のままでした。
3か月前に比べて、雑草が伸び、一見、未開拓のニュータウンのようでしたが、街の中心部で住宅街で、高田松原があり観光地で一番賑わったいた場所だったのに、工事車両だけが行き交う場所に変わってしまいました。
陸前高田の一本松は、頑張って立っていましたが、葉が多少茶色がかっていて、枯れないか気がかりです。
海のそばには津波に飲み込まれ全壊した中学校の校舎もありました。
9時半過ぎ、海岸近くの作業現場に到着しました。グループ毎に作業が割り当てられ、津波で流された家、道路のガラスなどのごみ除去、雑草とりの仕事となりました。
この場所は、魚の加工工場があって、津波によって魚が散乱して、ゴールデンウィーク時には、腐敗臭がかなりきつかったらしいのですが、当日は、匂いは消えていました。
********************
岩手日報 魚の腐敗臭、何とかして 陸前高田の住民不安(2011.5.23)
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110523_13
津波で大きな瓦礫は取り除かれ、広い野原のようになり、そこにわずかに残る建物は、骨組みだけ残しています。作業現場も、瓦礫は撤去され更地にはなっていましたが、土の中に、ガラスや茶碗、本やノートが出てきて、何とも言えない感情になりました。
何度か休憩を入れながら、午前の作業が終了して、バスに戻って昼食。トイレは、移動式バイオトイレカーが用意されていたので、困ることはありませんでした。
午後の作業に入るところで、先ほどの作業の場所で、骨が発見され、人が動物か判断できないものの、警察による捜索が始まりました。(徳島県警のパトカーで10人ほどで作業されていました。)大槌、釜石でも同様に、ボランティアの作業中に御遺骨が見つかることが毎日のようにあるそうで、震災の被害の甚大さを物語っています。
捜索現場から多少離れたところで作業を再開し、ピークを過ぎたとはいえ、気温30度近い中、汗だくになりながら、14時半過ぎ、作業が終了しました。
全てを片づけて、元通りの町に戻すにはまだ相当な時間がかかりそうですが、一人ひとり小さな力でも集まれば、ちょっとずつでも、前へ進んでいると思いました。
帰路、再び、陸前高田の中心部を通ると、市内を走る大船渡線の線路が、手つかずのまま、残されているのが見えました。駅舎も流れて、駅の面影もかすかに残るだけでした。(新幹線の復旧は早かったのですが、ローカル線はどうしても後回しにされてしまいます。)
帰りの川の駅で、陸前高田一本松クッキーを買って、午後4時過ぎ、遠野まごころネットに戻って、本日の任務完了しました。
遠野まごころネット (力仕事以外にも様々なボランティア活動内容が紹介されています。)
http://tonomagokoro.net/こちらの方のブログに遠野でのボランティア活動の作業内容が詳しく書かれております。
http://wada.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-d9f2.html
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